沿革

1 埼玉県高等学校職業指導主事協議会の結成

 埼玉県高等学校進路指導研究会は当初、埼玉県高等学校職業指導主事協議会として、1958(昭和33)年に結成された。結成にまつわる準備会として、その前の年、高等学校と中学校の職業指導主事が集まり全県的研究団体の結成について話し合いを持った。このいきさつは斎藤進(当時県立与野農工高等学校長)が埼玉県高等学校進路指導研究会機関誌『進路第6号』(昭和44年3月31日発行)に次のように述べている。

 「たしか、昭和32年の春から夏にかけてのことだったと思う。南浦和小学校長をしておられる落合茂夫先生に相談し、浦和市内の中学校で職業指導を担当している先生方に集まってもらい、職業指導の現状について話し合うとともに、会の結成についても相談していただいた。もう既に取り壊してしまった旧埼玉会館の付属建物に県立教育研究所があったが、地下室のうす暗い1室を借りて、長時間話し合ったのを覚えている。そこでは、高等学校にも働きかけてみること、既に結成されている他県の様子を聞き資料を集めること、中学校、高等学校の代表者が集まって準備会をもつこと等がきめられ、集まった市内の先生方は、会の結成に積極的であった。

 第2回の準備会は浦和商業高校の加藤松年校長にご出席願い、会場も同校を借りて、高等学校側から、徳丸、植木、橘、斉藤(博)、田島の各先生に出席していただき、前記の浦和市内の中学校の先生と話し合った。この席では、中学校、高等学校で、教育内容やその在り方に違いがあるので、中高別に会を結成することがよいであろうということになった。」

 こうして、1958(昭和33)年、1月旧むさしの荘のホールを会場として埼玉県高等学校職業指導主事(連絡)協議会が発足するのである。初代会長に加藤松年(浦商校長)、事務担当者として植木正男(浦和第一女子高等学校)、徳丸五郎(浦和商業高校)があたった。この当事者である徳丸五郎はこのころの高校職業指導をとりまく状況をつぎのように語っている。

 「昭和31年頃から実業界の経営も安定し求人数もわずかに増加してきた。しかし状況は県内約6,200の求職に対し求人が2,700(昭和31年10月16日付埼玉新聞)という状況であり、求職者を卒業時までに就職させることは至難の技であった。しかし、翌年は神武以来の空前の好況で一挙に求人が求職を上回る現象が生じた。そのため就職相談室における就職相談、資料の公開、求人側求職側のカルテの整理と仕事が増え、それに伴う悩み、疑問が高まった。また、業界の新しい現象(求人が短期間に集中する、一人が何社も受かってしまう、選考方法に普通・職業科目双方の出題が行われる)などもあり協議会発足の機運が高まった。」

 また、昭和32年12月20日付の浦商新聞に職業指導主事協議会発足について次の記事が見られる。

 「これまで本校において四回にわたる準備の協議を経て来春1月ごろ結成の運びをみる模様である。本会の主催者は指導課であるが、具体的な企画、事務局的な仕事は本校徳丸先生のもとで処理されており、正式結成は次のような活動が行われることになる。職業指導全般の仕事に対する県全体の水準が上がり学校における職業指導、就職、進学などの研究調査が徹底され、関係諸機関との情報交換の機会がえられ労務需給に関する、銀行、会社の雇用促進が計られ、学校教育における生徒の個別的特権に基づくガイダンスの徹底などがあげられ、早期結成が期待されている。」

2 結成後の5年間

 1958(昭和33)年1月の結成から1963(昭和38)年3月までの5年間は、機関誌の発行がないためこの 間の活動についての記録はほとんどない。そのため、活動内容については当時関わった方に聞き取り 調査を行い情報を集めた。当時事務局を担当した小林啓一は、次のように語っている。

 「発起人は高等学校と中学校の教員がかかわり、高等学校としては浦和商業で、中学校の場合は浦 和の大原中学校にあつまり職業指導上の問題について話し合い、必要あらば合同で会議をもった。し かし、話し合いといっても、就職の多い高校、特に職業高校の教員の親睦会といった色彩が強くその 中で何かを協議し関係諸機関に働き掛けるような事はしなかった。集まる教員も十数名程度で何等か の繋がりのある教員同士があつまり懇親を深めた。

 当時は就職の場合、事業所から指定用紙をもらえた学校のみ生徒の受験が可能であり個々の学校に おける求人求職状況については公にしない傾向があった。そのため職業指導のノウハウを高校間で情 報交換する習慣は生まれるべくもなく、むしろ自校の指導については口を閉ざすのが一般的であった。」

 以上から考えると発足後5年間の埼玉県高等学校職業指導主事協議会は組織的成長をはじめる前段階であり、客観的情勢もまたそれを許さなかったと考えてよいのではないだろうか。

3 機関誌の発行

 1964(昭和39)年に、埼玉県高等学校職業指導主事協議会の機関誌『会誌・創刊号』が発行されて いる。機関誌の発行は組織としての成長の第一歩と考えられるが、この時代の職業指導をとりまく情 勢を考えると、機関誌の発行の必然性がうかがえる。

 会誌発行4年前の1960(昭和35)年に高等学校の学習指導要領が改訂になる。そこではまず、職業指導という呼称が進路指導に改められ、特別教育活動(現在は特別活動)の目標に「将来の進路の選 択決定をするのに必要な能力を養う」と進路指導に関わる文言が導入され、教育課程上の進路指導の 位置づけが明確化された。また、その翌年から、文部省の進路指導講座が開始され、各地から進路指 導の中心的教員を集め1週間にわたる講習を行った。これは現在も続き、東日本と西日本の2会場で 行っているが、当時は関東地区で1会場を形成していた。いずれにせよ、これらの行政上の措置によ って学校教育の中に進路指導をしっかりと位置づけようとする文部省の姿勢がうかがえる。そうした なかで、埼玉県高等学校職業指導主事協議会の中心的メンバーがこの講座を受講し、そこでの成果を 協議会のなかに生かそうとしたのである。

 期せずして1963(昭和38)年、1万円の国庫補助金が交付されたこともあり、この年、11月に最初の研修会を開き、同年の文部省進路指導の受講者の川辺岩太郎(県指導主事)、新井輝雄(川越高・定)による伝達講習がおこなわれた。そしてこの2氏と、その前年の講習に参加した小林啓一(与野高)の3氏によって、文部省の進路指導主事講座の成果を中心に『会誌・創刊号』は作成されたのである。

 1966(昭和41)年には、埼玉県高等学校連合教育研究会の発足と同時にこれに加盟し、埼玉県高等学校進路指導研究会と団体名を改称した。そのため、研究会会員は、各学校の職業指導主事に限定されず、広く進路指導の研究をしている者も入会可能になったのである。

 当初『会誌』との標題であった機関誌も1968(昭和43)年の第5号より『進路』と改題され今日まで年1回のペースで発行されている。内容は、その年度の会長及び県教育局進路指導担当指導主事挨拶、文部省進路指導講座受講報告、研究発表や実践報告、その年度の活動報告といったものであるが、埼玉県高等学校進路指導研究会の足跡を知る非常に大切な資料となっている。

4 研修会及び研究協議会の開催

 当初、職業指導担当者が「懇親を深め」(前出、小林談)る場であった「埼玉県高等学校職業指導主事協議会」は、創刊号の沼部要副会長挨拶によると、会誌の発行されるまでは年に2回の総会のみ が会合の場であったようである。

 会合の記録として最初のものは、『会誌・創刊号』(1964(昭和39)年発行)にある、「昭和38年度研修会」の名のもとに開かれた、文部省夏期進路指導講座の伝達を目的とした内容であった。会員が一同に会した場ではあったが、その年度の夏の文部省進路指導講座の伝達講習会であった。この後、何回か同様の形で文部省進路指導講座の伝達講習会が開かれるが、会の名称は「研修会」を使ってお り、後の研究協議会と明確に区別されている。

 1966(昭和41)年は、会の名称を「埼玉県高等学校進路指導研究会」と改めた年である。この年、伝達講習とは別に県教委、日本職業指導協会との共催の形で高等学校進路指導研究協議会が11月に開催される。「主として高校ホームルームにおける進路指導について」(川辺県教委指導主事)、「我校におけるホームルームの進路指導について」(与野高・小林啓一、浦和商・辻清)の2本の発表があり、研究協議が行われた。これが研究協議会と名がついた初めての会であった。伝達講習もこれとは別に同年の12月に「昭和41年度研修会」の名で実施されている。ここでみられる「ホームルーム」 と「進路指導」の発表は、1960(昭和35)年に告示された学習指導要領において進路指導が特別教育 活動の中のホームルームに位置づけられた事を受け、それを実践した成果を発表したものと考えてよ いであろう。

 これを契機に独自の研究協議会への胎動がみられる。翌年度の研修会は伝達講習のみであったが、その年度に発行された会誌『進路・第5号』の中で当時の辻清事務局長は「今後の研究会の運営」の 中で「会の組織の中に就職指導研究部会、進学指導研究部会(仮称)というように二つの部会をつく り、それぞれの部会において研究テーマを取り上げて、研究を続けていくことも一つの方法として考えられる。」と述べ、その後の部会別の研修会の開催を示唆している。

 そして翌年の1968(昭和43)年、奇しくも研究会発足10年目にあたるこの年に、普通科、職業科、定通(制)の3部会が発足し、10月におこなわれた第一回分科会では各部会長、副部会長が選出され、各科独自の活動を始めるのである。この年早くも各科は活動を活発化させ、定通(制)部会が会合をもちアンケート形式で研究を開始。また、職業科部会は就職関係の書式について意見交換会を持ち、普通科部会はすでに(11月)発送したアンケートについて翌年の1月に集計結果を協議するといった形で研究を推進したのである。会誌の内容も機を同じくして充実していき、翌年の1969(昭和44)年には、「定時制工業高等学校生徒の現在の職場への継続、転職意識と進学意欲の実態と悩みの問題」(隈崎順造・川越工(定))そして、翌年は「本校の進路指導と私案」(久喜工)、「本校の進路指導」(所沢)、「現在の職業に対する意識調査」(川越工(定))などの実践発表や部会独自の発表が行われるようになっていった。35年に亘る埼玉県高等学校進路指導研究会の活動であるが、活動の最初のピークはこの時期に訪れたといってよいであろう。

 その10年後にあたる1978(昭和53)年1月、これまでの3部会に加え障害児教育部会が正式に発足する。部会発足のきっかけは、2年度前の研究会総会での川越盲学校の米山一郎教諭による障害児の進路指導研究機関の設置要求であった。これを受け研究会では準備を始め、次の年の7月の障害児教育部会(仮称)設置準備会を設けその年度内の1月に発足をみるのである。「機関誌『進路』掲載論文表題」を見ると以上のことが分かるが、この障害児教育部会の発足を機に、会誌に掲載される論文の数も飛躍的に増大する。障害を持った生徒たちへの進路指導は進路保障の精神の原点でもある。障害児教育部会の発足は埼高進研全体の活動に新たなインパクトを与えたのである。

 1980(昭和55)年2月の研究会総会にあたる高等学校進路指導研究協議大会で進学指導についての研究の取扱いについて、「進学に目的意識を持たせること」、「共通一次の取扱い」などについて問題提起があり、研究会の中に進学担当者による研究を進める場の設置要求があった。これを受けて翌年「仮称」ではあるが4つの部会に加え「進学研究協議会」が発足するのである。埼玉県内高校出身の高校生の進学率が低迷しているという客観的情勢も手伝いその年早くも2回の研修会を開催している。その後1985(昭和60)年までは、進学研究協議会は夏休みを前後して年に2回研修会を持ち研究発表および研究協議を重ね、年1回の他の部会より活発な研究活動をおこなうのであった。しかし、1986(昭和61)年からは、7月の進学研究協議会は役員の打ち合わせに内容が変更になり、他の部会同様、秋の研修会1本に研究発表を絞るようになったのである。(進学研究協議会については次項にて詳説。)

5 研究発表の変遷

 研修会または研究協議会での発表内容について別掲の「機関誌『進路』掲載論文発表題」を参考に、 高等学校進路指導をとりまく時代の変遷が研究発表内容にどの様な影響を与えて来たか見ていきたい。前項目「研究協議会の開催」でも書いたが、実際の研究協議会で発表された内容としての研究発表の掲載は会誌の第4号(1966(昭和41)年度)以降となる。

 ただし、『会誌・第2号』には、研究協議会の発表論文ばかりでなく、様々な会員の投稿があり、 当時の進路指導のかかえる問題を如実に表している。ここにその標題と投稿者名を掲載しておく。

 「自己理解について」(飯田千市・羽生実業)、「定時制における職業指導」(隈崎順造・川越工(定))、「定時制における職業指導上の問題点」(中林慶司・本庄(定))、「定通差別の問題の盲点」(志田信男・蕨(定))、「定時制生徒の職業指導雑感」(山影裕昭・飯能(定))、「商業教育と職業教育」(高橋達治・深谷商)、「商業高校における「類型制」と「進路指導」」(宮井叡・岩槻商)、「新設校での進路指導」(山口福男・与野農工)、「何が適職だろう」(水島重治・熊谷農業)、「進路指導の立場から」(堀口伍郎・熊谷女子)、「進路指導主事の哀歌」(上原勝之助・幸手商)以上、会誌のなかった5年間の様々な会員の意見が非常に簡潔にまとめられており当時の高等学校の進路指導の様子を知る非常によい資料となっている。

(1)工業高校の実践研究発表の活発な時代

 1960(昭和35)年、池田内閣の所得倍増計画を契機として日本は飛躍的な経済成長をとげる。この間の5年毎の経済成長率は12.5%(1960~1965)、11.0%(1966~1970)(IMF統計による)と常に10%以上をキープしていた。そのため、社会は実務力の備わった労働力を要請するようになり、1962(昭和37)年には実学的教育機関として高等専門学校が設置される。こうした影響は1966(昭和41)年の中央教育審議会の答申「後期中等教育の拡充整備について」であらわれ、その翌年と翌々年の理科教育及び産業教育審議会の答申「高等学校における職業教育の多様化」で具体的に示され、工業系学科を中心にして学科の増設、募集生徒の増員がはかられた。

 こうした社会の変化は、特に工業高校の進路指導に大きな影響を与えた。『進路第4号』に掲載された「工業高校における進路指導」(染谷良・久喜工業高校)のなかでは、工業高校の急増対策によって生徒の質が年々低下しているため優劣の激しい生徒を社会に送り出さなくてはならない実情、また、教育の多様化のため「一方進路指導の面からは一般の普通高校より履修単位が多くかつ、専門教科指導に重点がおかれる結果、科別意識が強く、これが学校全体の指導に協調を欠き易いため進路指導の一貫性を失う等の問題もかかえているが学校教育の場における進路指導の位置づけと、その効果的方法を研究しつつあるのが一般的姿ではないだろうか。」(進路第4号34頁)と述べ、社会の求める労働力の変容に直面し、工業高校の進路指導の適切な対応が差し迫ったものであることをうかがえる。

 研究発表校も第4号の8校中4校をはじめ、第5号の5校中1校、第6号の3校中1校、第7号の4校中3校、第8号の7校中4校、第9号の6校中2校、第10号の5校中3校と必ず毎年1校以上の発表があり、この傾向はオイルショックの前年に発行された第10号まで続くのである。また、この中には工業高校の定時制に対する優れた実態調査もあり、全日、定時の課程を問わず、大きな社会の変化のなかで抱える生徒の悩みを、進路指導を通じいかに解決すべきか模索している様子がよくわかる。

(2)新設校における研究発表

 昭和50年を過ぎると県内では新設高校設立のラッシュを迎える。新設高校では、就職の求人開拓や進学資料の整備などすべて一から始めなくてはいけない。そのため先進新設高校の実践報告が求められ、第15号(昭和52年度)「新設高校における進路指導の実態」(山口・福岡)第17号(昭和54年度)「新設高校における進路指導  -HR進路学習をふまえて」(木村真平・上尾南)、第18号(昭和55年度)「新設校の進路状況とその問題点」(新井幹夫・熊谷西)、第21号(昭和58年度)「新設高校における求人開拓への取り組み」(井上晃治・妻沼)などが相次いだ。

(3)就職指導から進学指導へ(進学研究協議会発足の意義)

 大学・短大等の高等教育機関の在学者が同一年齢人口に占める割合は、昭和25年から31年までが約10パーセント前後であったのに対し、昭和58年には35.1パーセントとなった。これまで就職指導が中心であった進路指導が、進学指導にシフトする時期が到来した。進学研究協議会もまさにこの時期に設立されたのである。

 1980(昭和55)年、仮称として発足した進学研究協議会の設立のいきさつは、前項で述べたが、進学研究協議会の活動報告を最初に載せた『進路18号』において、普通部会長との兼務であった久米弥三郎は設立の経緯を「今迄ややもすれば当研究会が就職問題の方向ばかりに重点を持って来た研究会であるとの誤った見方を打破する上からも、又一方大学進学率が全国都道府県のうちで最下位に近い埼玉県の進学状況を考える上からもたいへんに時機を得た協議会であると深く喜びにたえない次第であります。」と述べている。設立当初の進学研究協議会の性格を伺わせる一文である。

 当時、普通部会、職業部会、障害児教育部会が年1回の研究協議会を開催していたのに対し、進学研究協議会は仮称であった当初から年に2回の研究協議会を開いており当時の進学指導の熱の高まりを感じさせる。発表校の顔ぶれを見ると進学研究協議会の役割が一層顕著になる。最初の年、年2回あった研究協議会の第1回目の発表は八潮、白岡、第2回目が豊岡、不動岡、松山、川越の各高校であった。その翌年も同様の傾向を見せ、第1回目、吉川、浦和北が、第2回目は越谷北、熊谷が発表している。つまり、第1回目は新設校での進学指導の熱心な学校の実践発表、そして、第2回目は進学実績の高い伝統校の発表となっている。この傾向は進学研究協議会がそれまでの方針を変更するまで5年間続けられるのである。

 1985(昭和60)年、進学研究協議会はこれまでの方針を変更し、「専修学校進学指導の実践的取組・専修学校進学者の追跡調査等」について取り組むようになるのである。この年は1976(昭和51)年に発足した専修学校制度が10年にならんとする時期であった。この年、専修学校は3,000校を越え、生徒数は50万人に達していた。このため専修学校進学に伴う進路指導上の疑問や問題が表面化して来た時期でもあったのである。しかしこの年の第1回目(7月)の進学研究協議会では蕨、川越西の進学校、新設校両校の発表があり、これまでの形態を踏襲した形であったが、第2回目(12月)では与野、八潮両校から専修学校追跡調査の発表が行われ方針の変更を明らかにした。翌年より、年1回に減少したものの、方針通り専修学校の研究発表を取り入れ継続的専修学校研究を続けている。

6 就職統一応募用紙の作成について(『進路保障』への取組み)

 『進路保障』とは職業選択の自由、就職ならびに教育の機会均等を確保する視点での就職差別を解消するための取り組みをさす。1973(昭和48)年に埼玉県が独自の就職統一応募用紙を採用した事はまさに進路保障そのものの事業であり、採用に至るまで本研究会は大きく関わってきた。当時、進路保障の観点からみた違反企業数が600社を越えていたため、進路保障の立場から何等かの形で高校側より積極的に企業に就職差別是正を働きかけていく必要があったのである。

 就職統一応募用紙の作成経過は次のようである。1972(昭和47)年1月13日、第1回統一書類作成委員会が開かれ、翌月の9日には第2回の会合をもっている。翌昭和47年度の最初の理事会(4月)にて書類の取扱いについて論議され、5月には第3回統一書類作成委員会が開催され、「統一書式の企業側への周知徹底について」「統一書式の印刷について」話し合われた。就職統一応募用紙の作成は2年越しでおこなわれ、初めの年、昭和47年度の就職統一応募用紙は近畿高等学校統一用紙を若干手直ししたものとなった。印刷については職業安定所管内でおこなったところもあれば、また、各校独自でおこなったところもあり、「統一」の名称と実態とには若干の隔たりがあった。また6月の総会においても午後より統一書類採用に伴う諸問題の研究協議がなされた。秋の研究協議の場でも、職業科部会、普通科部会でも協議がおこなわれた。

 こうして、埼玉県高等学校進路指導研究会と県教育委員会との共催による研修会が1973(昭和48)年2月に開催され、その内容が決定された。印刷も県労働部が一括しておこなうことになり、名実共に就職統一応募用紙が生まれたのである。当時、作成委員のひとりであった安田嘉男(川越工)は振り返って「埼玉県の就職統一応募用紙は同和教育の視点から検討を加えている点に、他の都県と違った特長があったわけです。」と語っている。

 その後も就職統一応募用紙は、写真の大きさ、家族の続柄欄を男女別のみの記入とするなどさらなる改善を続けている。

7 全国の研究団体との関係

(1)関東ブロック進路指導研究会

 この研究会は1961(昭和36)年から始まった文部省進路指導講座の受講者を母体に1965(昭和40)年の文部省進路指導講座の最終日に創立をみるのである。この創立の様子については『会誌・第3号』のなかで小林啓一(当時与野高)が次のように書いている。

 「しかし日一日と充実した講義内容に、会場は異様な盛り上がりの雰囲気となり、自己の現在おかれている立場が如何に重且大であるかを再認識し、自分の研究の不十分さを、いやという程痛感させられ、やる気を十二分に引き出せられるのである。

 それが受講者の結合となり、相互信頼のもとに、情報の交換、研究活動の推進などに発展、第3回の修了者の方々が中心となられて、関東ブロック進路指導研究会が第5回の講義修了日に東京の教育大学で発足したわけである。」

 『会誌・第3号』に掲載されている規約によると、「本会の会員は文部省主催進路指導講座東京会場の受講者をもって本体とする。」とあり、開かれた組織ではなかった。また、受講者には中学校と高等学校両方の教員が含まれていた。財団法人実務教育研究会(現・実務教育出版)に事務所をかまえ、発会の当日には『関東ブロック進路指導研究会会員名簿』が配布されているところから、財団法人実務教育研究所のバックアップを受け、かなり前から準備された会の発足であったと考えてよいのではないだろうか。

 同年11月21日(日)には早くも第1回関東、甲信越進路指導研究協議大会が開催されている。こ の会はその後も受け継がれ、1969(昭和44)年には、第5回東日本進路指導研究協議大会として、埼玉県にある立正女子大学(現・文教大学)を会場に開催されるはこびになった。これまで都内で行われていたものをはじめて都外に出したため、東日本進路指導研究会、開催県である埼玉県の教育委員会、中学校・高等学校進路指導研究会の合同主催によってこの会は開催されたのである。「東日本」との名はついているが、実際には関東、甲信越の文部省進路指導講座の受講生を中心に構成されており、組織としては、都県代表と、各年度の受講者代表とからなっていた。埼高進研からは、会長の山田信雄が副会長に、事務局の辻清が県代表理事、事務局の小林啓一が年度代表の理事に名を連ねている。

 この組織は翌年1970(昭和45)年には規模拡大を果たし、全日本進路指導研究協議大会として、東京の富士学院にて11月28.29日の2日間にわたって実施された。第1日目は、北海道から福岡までの全国の中・高校の先生による問題提起が行われ全日本の名に相応しい大会になった。この会の司会に、当時埼高進研事務局を担当していた小林啓一があたっている。

(2)関東地区高等学校進路指導連絡協議会

 そして翌年の1971(昭和46)年11月に行われた文部省主催全国中高進路指導担当研修の場で、「文部省の荒井昭雄教科調査官より高等学校進路指導の全国組織結成の要望が出され、その段階として各ブロック組織の結成が提案された。」(『進路・第11号』13頁 辻清「関東地区高等学校進路指導連絡協議会の結成にあたって」)当時、東京や埼玉をはじめ県単位での進路指導研究会が活動をし始めた頃であり、これらの組織を合わせ関東ブロック結成の動きは必然であったかもしれない。この動きについては日本就職協会発行『日本就職新聞・第51号』(昭和47年6月15日付)に、「進路指導の未来をさぐる 関東ブロック化への胎動」のタイトルで関東各都県の進路指導研究会事務局担当が一同に会し、関東ブロック結成についての討論会の記録がある。ここには埼高進研からは事務局長の辻清が参加し、特に就職用統一用紙の作成や就職の斡旋時期にからみ、関東ブロック組織の必要性を強調している。

 そして1972(昭和47)年12月、都立京橋高等学校で第1回の準備会が開かれ、何回か発起人会がもたれ7月14日に関東地区高等学校進路指導連絡協議会が発足するのである。埼高進研からも役員が出席した。そして翌年の1月には第1回の研究協議大会がもたれ、辻清が問題提起を、安田嘉男が「埼玉県における統一応募書類」について参会者に説明したのである。

 1975(昭和50)年2月には、関東、近畿、九州の3ブロックのみの参加ではあったが「全国高等学校進路指導連絡協議会」が結成される。しかし、全国組織へと拡大するにつれ、埼高進研との直接的なつながりは次第に弱くなっていくのである。

 関東地区高等学校進路指導連絡協議会の研究協議大会については、結成以来東京で行ってきたが、1985(昭和60)年より関東地区で持ち回りとなった。1989(平成元)年1月には関東地区高等学校進路指導連絡協議会を埼玉県で開催する運びとなった。折しもリクルート事件で政界が揺れている時期であったが、当時の藤田八郎会長のもと埼高進研の役員、理事の一致団結のもとでこれまでにない210余名の参加者で盛り上がりを見せた研究協議会となった。

8 関係諸機関との連携

(1)中・高連携

 会の発足当初は中学校との連携が密であったが、その後進路指導内容の相違もあり疎遠になっていた。しかし、中・高連携の必要性がたかまった1971(昭和46)年12月、中・高等学校進路指導連絡協議会がもたれ、中学校から高等学校への進学指導を中心に双方から意見発表が行われた。また、翌年12月5日には「西部地区中学校高等学校進路指導連絡協議会」そして3日後の8日には中・高進路指導連絡協議会がひらかれ中学校からの高校進学について研究協議がなされた。

 この中・高進路指導連絡協議会はさらに発展して、翌年の1973(昭和48)年10月、県内を東西南北4ブロックに分けた協議会が実施された。この内容については、この年度に発行された機関誌『進路・第11号』に当時の会長加藤四郎は、「中高連絡は、今年初めて四地区の連絡協議会がもたれ、中高両者の忌憚のない意見が交換され相互の不信感の一部が解消された事は喜ばしい。送る立場、受け入れる立場の相違、入試選抜の問題、定時制、職業高校の中学校側の理解の問題等前途には難問が多いが、これを契機に更に連絡を密にして、狙いとする中高進路指導の一貫'性を実現したいものです。」とあいさつの中で述べている。しかし、同年のオイルショックで高卒就職は大きな打撃を受け、埼高進研の活動全体が縮小し、中高連携もこの時期を境に積極的に行なわれなくなった。

 中・高連携の新たな動きとしては、1991(平成3) 年度の活動の基本方針に「中学校との連携」を盛り込み、同年より事務局レベルで連絡会を開催している。

(2)県内専修学校との連携

 県内の専修学校との連携は、1987(昭和62)年に埼玉県専修学校各種学校教育振興会より申出があり、同年9月に双方の役員で話し合いが持たれ、同年の進学研究協議会にて情報交換会がもたれた。その後、毎年一回、合同の研究協議会を開催しており、1991(平成3)年には、バスを利用した見学会も実施された。

(3)県内私立短期大学との連携

 埼玉県私立短期大学協会との連携は、1986(昭和61)年に双方の役員の話し合いをもとに同年の進学研究協議研修会にて県内短大13校の参加を得て意見交換会をもった。その後連携を続け、1989(平成元)年には、研究協議および高校生への進学相談会を持つようになった。翌年は、研究協議会と進学相談会は日を分けて行うようになり、1991(平成3))年より、進学相談会は場所を大宮と川越の2ヶ所に増やし連携の強化を図っている。

〔文中の登場人物については敬称を略させていただきました。 三村隆男先生執筆〕